23. 1580天草地区長に就任し布教に努める

23天草はキリシタンの地に

 アルメイダは1581年12月に出席した長崎の地区長会議で、「わたくしは、わが布教地区天草に、理想的な宗教王国をつくるつもりであります」と発言しました。 

 その当時天草鎮尚の領内には30以上もの教会が建ち、信者の数は1万5千人にも及んでいました。

 

 ところで、アルメイダが天草地区長に就任した頃の天草5人衆ですが、以前影響・庇護を受けていた大友氏が1578年耳川の合戦で島津軍に大敗すると、大友から島津に転身していました。

 

 アルメイダ後の天草5人衆

 1587年秀吉の九州征伐では島津軍の与力として竹田の岡城に出陣しますが、島津が敗退すると、秀吉に恭順し、秀吉軍の与力として島津攻めに加わります。

 

 秀吉の天下統一後、宇土城主として小西行長が赴任しますが、天草5人衆は小西行長の宇土城普請の要求を拒否し1589年の天草国人一揆に至ります。小西行長・加藤清正連合軍に破れ、5人衆は滅亡あるいは服属します。

・天草氏は本領安堵

・志岐氏は肥前有馬氏を頼って逃走

・大矢野氏は領地を没収される

・上津浦氏も領地を没収される

・栖本氏は小西行長に臣従し授洗

 

 この時本領安堵となった天草氏も関ヶ原の合戦後滅亡します。